パラリンピックの実況で活躍した、あるレポーター
この8月から9月にかけて、東京ではオリンピックとともにパラリンピックが開催された。オリンピックの頃は東京の酷暑に辟易としていたが、気づけばすっかり涼しくなり秋の到来である。 オーストラリアは春を迎えるこの季節は、日本では秋の到来が鈴虫などの鳴き声とともにやってくる。多少こじつけがましいが、今回はパラリンピックと秋の虫との関連について書いてみたい。
私自身、開会式や閉会式を含めてパラリンピックの競技をテレビではあるが、これほどじっくりと観戦したのは初めてで、コロナ禍とはいえども開催地の恩恵にあやかることが出来た。そこで、いつも競技の合間に登場する若くてエネルギッシュな一人のレポーターに目がとまった。その女性は後藤 佑季さんといって、障害のある人を対象にした公募で選ばれた方である。彼女には聴覚障害があり、人工内耳の手術を受けているという説明通り、よく見ると耳から後頭部にかけてデバイスのようなものを装着していた。もっとも、私が関心を持ったのは決して偶然ではない。40年以上前にオーストラリアで実用化された人工内耳という発明品を抜本的に改善する技術開発をしているHemideina社への投資を検討していたタイミングであったからだ。
考えてみると人工内耳は凄い発明である。人間の聴覚は、音の情報を内耳の蝸牛で電気信号に変えて、聴神経を通じて脳へと伝達することで成り立っているが、この蝸牛に障害がある場合にそれを代替する人工臓器を移植し電波で頭皮の外から音声の元となる信号を送るものである。近年、コンピュータを脳と直接接続する試みが注目されているが、電気信号を情報として脳へ送り込むという点でこの人工内耳はその先駆けと言えなくもない。ただし、限られた情報量から不足している部分を補うために脳の創造性に依存することになり、そのために半年以上のリハビリが必要となる。本人の努力によって能力を高めることができるのは、義足を使いこなすパラアスリートと同様で、後藤さん本人及びご家族のこれまでの苦労と頑張りぶりは想像に難くない。しかしながら、長い時間をかけて改良を重ねてきたとは言え、当初から基本的に変わらないアーキテクチャーの限界ゆえに多くの制約が依然として残り、新たなイノベーションが必要とされてきた。
ニュージーランド固有種のWellington Tree Wetaという昆虫がヒントをくれた
WetaとはWikipediaによると「巨大な飛べないコオロギ」らしく、写真を見ても日本の秋を象徴する美しい音色を奏でる虫たちとは大分印象が異なる。つまり決して風流なものではないことは前置きしなくてはならないが、Hemideina(そもそもこれはWetaの別名)社の共同創業者であるKate Lomas博士の研究によりWetaが非常に繊細な聴覚メカニズムを持っていることが分かっている。昆虫の鼓膜の大きさより遥かに長い波長も含めて機械的に音声処理する構造を持っており、それが人口内耳の超小型化におけるヒントになると直感したのだ。また、電気的に特定の周波数を取り出す既存の処理方法では多くの情報が欠落してしまい、分かりやすい説明では「音程・強弱・タイミングなど音楽に必要な要素」が再現できないということなのが、Wetaにインスピレーションを得た同社のアナログ的フィルタリングというアプローチはこの点でもブレークスルーを実現できる可能性がある。アナログ音声は情報量が豊富で、健聴者が通常得ている細かいニュアンスなど伝達できるかもしれないし、何よりリハビリの苦労が大幅に軽減されるかもしれない。
人口内耳という発明をかつて世に送り出したオーストラリアが、ニュージーランド固有種の昆虫に由来するNatureTechと共に次世代の発明へと繋げていく。オーストラリアのテクノロジー投資の醍醐味を象徴している気がする。
(細谷 淳)