ファンドの資金調達のときも、私の仕事の紹介のときも、いつも聞かれるのは、「なぜオーストラリアなの?」という質問だ。 日本では海外のスタートアップ投資といえば、シリコンバレー、イスラエルが中心で、最近ではインド、東南アジア、ヨーロッパあたりがそれに加わる程度だ。 オーストラリアなんてまず話に出てこない。 そこで、ファンドのきっかけにもなった、私とオーストラリアとのつながりを少し紹介したい。
私とオーストラリアの最初の出会いは、1989年に遡る。 当時、富士通という会社で人事をやっていて、前年から人事の若手を海外の現地法人に送り込んで、将来のために海外経験を積んでもらおうというプログラムが始まり、私は2人目の派遣だった。 行先は、当初は富士通が多くの拠点を有するシリコンバレーだったが、途中からなぜかオーストラリアに変更され、オーストラリアに対する知識がほとんどなかった私はずいぶん不安になったことを覚えている。 この会社の気まぐれがまさかその後の私の人生を大きく左右するとは、当時は夢にも思わなかった。
さて、バブル期の日本に違和感、居心地の悪さを感じていた私にとって、1989年に赴任したシドニーは、すべてが新鮮で、よい意味で驚きの連続だった。 なにしろ、人々が家族を大切にし、家族中心の生活を本当に楽しんでいるのだ。 そして男性も家事や育児に積極的に関わっている姿は、とても印象的だった。 ちなみに、オーストラリアでは家事や育児に積極的に参加している既婚男性を「オージー・ハズバンド」という。 当時、「豊かさとは何か?」という議論が日本でも盛んに行われていたが、その答えがオーストラリアにあると私は確信した。 当時のオーストラリアは、物質的な豊かさでは日本にまったく及ばなかったが、精神的な豊かさは日本よりはるかに上回っているように感じられた。
私は、モノはあふれていなくても精神的に満ち足りた生活を送っているオーストラリア人が羨ましかった。 そこで、彼らとできるだけ接して「オーストラリア人」になる努力をした。 彼らとバーベキュー・パーティーをしたり、誰かのホームパーティーに出かけたり、一緒にラグビー観戦に行ったり、ラグビーをやったり、地元のサッカークラブでプレーしたり・・・。 あまりにもオーストラリアの環境にフィットしすぎたせいで、1992年に帰国してしばらくしたら、逆に日本の環境になかなか慣れず、一時的に自律神経失調症になったくらいだ。
私とオーストラリアとの2回目の出会いは、それからずいぶん経った2004年になる。 オーストラリアから帰国後、米国の経営大学院留学等、しばらく私の意識の中では米国第一となり、すっかりオーストラリアとは縁遠くなっていた。 オーストラリアとの遠くなった縁をつなぎ止めて強固にしたのは、他でもない、私のカミさんである。 彼女との出会いは、渋谷にあるオーストラリア・ワインが飲めるレストランでだった。 米国の経営大学院時代の同期が何人か集まって小さな同窓会を開いたときに、同期の1人と同じ会社に勤めていた関係で一緒についてきたのだった。 私はオーストラリア時代にオーストラリア・ワインにすっかり魅せられ、オーストラリア・ワインについてはかなり詳しくなっていた。 彼女もまたワイン好きで、ワインの話ですっかり意気投合した2人が付き合い始めるのにそれほど時間はかからなかった。 翌年には結婚し、すぐに2人の子供にも恵まれた。
以来、毎年のようにカミさんの実家のあるメルボルンを家族と訪れている。 メルボルンは、シドニーと並んでオーストラリアの2大都市のひとつだが、シドニーとはまた異なった魅力がある。 たとえると、シドニーは米国西海岸のサンフランシスコのような街で、メルボルンは米国東海岸のボストンのような街だ。 私は若い頃シドニーに住んでとても快適な生活を送り、たまに出張で行くメルボルンにはあまりよい印象を持っていなかったが、年を重ねると逆にメルボルンの方が心地よく感じるようになっていた。 ただ一つ、メルボルンでは圧倒的にオーストラリアンフットボールの人気が高く、ラグビーはあまり盛んではないことを除いて。
さて、メルボルンに頻繁に行くようになると、メルボルンでも人脈を広げる機会が増えた。次回は、メルボルンで人脈を広げていく中で、なぜオーストラリアのスタートアップに投資したいと思うようになったかをお話したい。
(黒田康史)